昭和46年12月09日 朝の御理解



 御神訓 一、「信心にする人は何事にも真心になれよ。」

 これは真心と真心とこう書いてありますね。真心になれよとこう。又は信心のね信心生活というこの信心、それにもやっぱり同じ、そう言う物も含まれておると思いますね。真心になれよ。信心するものは何事も真心にならなければならない。何事にも神様を頂いておる、拝みよるという自覚に立たせて頂いて。我お道の信奉者、金光様の信者だという自覚に立って、言う事でもする事成すことが、いわゆるまぁ真心にならねばならぬと。いわゆる信心生活と云う訳ですね。
 あまりにも当たり前の事であって、あまりにも実はおろそかになって、おる所だと思いますね。信心するものが真心にならにゃん事は当たり前。その実は当たり前の事が、中々出来ていないのです。だからいうならば大変な、私は御教えだと思いますね。こりゃもう当然信心する者、真心ならにゃならん事は分かっておる。あまりにも簡単明瞭に、その簡単明瞭な事が実は、出来ていないというのが、私達の信心生活じゃないかと思うのです。本当にどれ程私共が、真心にならせて頂いておるだろうかと。
 しかもその真心というか信心というのは、もう限りがない程しに、ありますのです。まぁ例えて申しますと昨夜、昨日はあの文男先生の所の、お祭りに今度増築をいたしまして、その増築の報告祭、同時にまぁ謝恩祭で御座いましたが。まぁ大変な充実した、本当に有り難いお祭りでした。夕べもう遅うに帰らせて頂きまして、秋永さん送って来て頂いて、もう帰られるのが12時過ぎでしたでしょうか。
 まぁ私は参りの方たちに、必ず皆さん帰られます時には、下がっておる時には、まぁ御結界におる時には、ご無礼しますけれども、下がっておる時には誰が帰る時でも、そこまで送るんですよ。昨日も私が皆さんが福岡それから、福岡が伊藤さんと嘉朗、文男先生達夫婦と。でから、久富正義さんの車と三台を送ります。あそこで必ずその、送ります時にご祈念を致しますんですね。
 どうぞまぁ無事に帰らせて頂きます様にと言う事を。そしたら昨日ね私その事をお願いしよりましたら頂く事がねあの「この功徳を持って、遍く一切及ぼしと言う事を頂くんですね。この功徳を持って遍く一切が。私は本当に自分達のその祈りの浅さと言う物をね、改めて感じさせて丁度高橋さんと2人で送りましたから、高橋さん今ねこんな事を頂いたが私達の祈りは本当に、浅はかな事ばっかりだなというてから話た事でした。
 昨日も私共こちらへ帰って参ります時に、大変な事故があっておりましてね、まぁそこでおりてもう私はおりん、おりませんでしたけれども、皆降りてから見に行っとりましたがもう、勢いと言う物はですね。本当にたまがりましたよ。自動車が飛んで行っとる、その人間が又それから、又随分向こうの方へぽんと飛ぶ。川の中におてこんどったでしょ。自動車の中に人間がおらん。どうて自動車を飛び出してから向こうの一つ、道を超えた向こうの川の中に落ち込んどったっち。云う様なねまぁひどい事故でしたが。
 まぁ本当にそのやはりそのその身の引き締まる思いで祈らなければおられない。久留米廻りに回って来た人達もやっぱあっちでも事故があっとったと言う事なんですけどね。本当にもう祈らなければおられないですけれども、私共の場合はその祈りがただ本当その場でその此処まぁいうなら昨日私が自動、皆さん送る時にその時にお家に帰られる様にと言う事だけなんですけれども。結局その皆さん此処にお参りをされると言う事ね。段々熱心にそのお賽銭でもお供えをなさる、お初穂でもお供えなさると。ね、
 昨日あんた文男先生あたりの場合なんか、まぁ沢山のお供えをもって、お礼参拝を夫婦でしておるとこう云う訳ですね。ならこちらから参りました人が何れも、やはりまぁいうならば功徳を積んだ訳ですよね。信心にならせて信心になるどころか参ったり、又遠方の所を参らせて頂いたりそのお供えをさせて頂いたり、まぁ奉仕した訳ですから、やはりその功徳なんです。
 だからねその例えば三台の車を送らせて頂いたらその、それぞれ今日一日功徳をなさったその功徳がね遍く一切に及ぼしを、事の出来る様に祈り願いという事。ただ此処から自分達の自宅まで文男先生がどうぞ無事に帰ります、着きます様にだけじゃいけんち。是はあれはあの真言宗州のお大師様のこりゃ唱え言葉の中にある言葉ですねきっと。昔あの「遍路」さんというのが、ずっとこに角角に立ってこう托鉢を致しますね。お米を上げたりお金をあげたりしたりしますと、あのそう言っておられましたね、
 「この功徳を持ってまねく一切に及ぼし」という、唱えてこう去られます、ね。そこを一銭でも、米一すくいでお功徳をしたわけです。だから、この功徳がどうぞ、ね、この家が助かる様に、あなたが助かる様に、遍く一切に及ぼす程しの、いわゆるお大師様のその祈りと言う物がいかに、広くて、深い、深遠なものであるかと言う事が分りますね。私共の祈りもやはり、それがただ自分の事だけ、どうぞ是から久留米まで参りますから、無事で行けます様にと言うだけでは無くてですね。
 もうせめて自の達の関わりあいのある、それこそ「袖そりあうも多少の縁」と申しますから。そういう人達の上の事にまで、祈りを及ぼして行く、かけて行くと言う事だと。私はそれが本当にそうだと、あの分からせて頂いて、そういう祈りの出来れる生活。いうならば祈りの生活。真心になれよとはそう言う事だと私は思うです。ね、祈りに明けて、祈りに暮れる。と皆さん申します、祈りに明け暮れる生活。それが「信心する人は何事も真心になれよ」と言う事じゃないでしょうか。
 段々信心の心と言う物が、深く、広くなって参ります。ね、それは勿論自分の心が、より豊かになって行く、より美しゅうなって行く事に願いを持っておりますから、心が豊かになれば成る程、心が限りなく美しゅうなれば成る程、ね、今まで気の付かなかった所へ、気付かせてもろうて、いわゆる行き届いた信心が出来る様になる。その行き届いた祈りが出来る様になる。私はしん、真心になれよと教祖、そう云う事だと思うんです。「信心する者は何事にも真心になれよ」。
 ただ自分のガリ我欲の事を頼んだり、願ったりする事が信心じゃないと。ですからそう云う事だけで、まぁ信心をしておると、こうお参りをしておると云う事になると、信心させて頂く者、何事にも真心になれよと仰る、その真心になれていない事が分ります。ですからその祈りと言う物が段々、深遠なものに、又それが力のこもった祈りになる事の為に修行も必要であり、本気での改まらせて頂くと云う事。
 本気で所謂限りなく美しくならせて頂くと云う事に精進すると云う様な、そういう精進させて頂く心から生まれて来る、生じて来る所の祈り。しかもその祈りの生活に明け暮れるというのが、何事にも信心になれよと云う事だ。それでまぁ私その事を頂いてから嬉しゅうなりましたね昨夜。いや私達の祈りがね遍く一切に及ぼしていけれる程しのですね、事になって行くと云う事は、もうそれ本当に有り難いと云う事は何というか、信心しよっ、信心させなければそう云う事の出来ない境地と言う物がね。
 そこに開けて来る。それは本当にささやかな功徳に違いありません。ね、けれどもその、爽やかな、その功徳がです、遍く一切に潤おうて行く、及ぼして行くというようなです、おかげを受けておると思うただけでも、信心生活が、どの様に素晴らしいものかと云う事が分ります。成る程そういう祈りを持った人達がです、ね、いよいよ、沢山になっていかなければならないと、云う事も感じます。「信心する人は何事にも真心になれよ」と。例えば生きた者に接する。
 例えば猫やら犬やら、ね、例えば飼ってあります。もう猫を飼うとるけん犬を飼うとるけんちうもう、ほうからかしたなりじゃいかんでしょうが。やはりね、ちょっとまぁ猫がまーなら、3度3度か知らんですけれども、まぁ結局まぁ3度、3度の食事をしゃっと、こう作ってやらなければいけません。それは生きた物を飼っておるからなんです。ね。野菜を作るにしても、ご飯を栽培するに致しましてもそうです。もう種さえ蒔いときゃよかと云う事じゃないでしょうが。ね。
 植えたら植えただけちゅう事じゃない。それは生きた物に対する所の、親切と言う物がね、常に使われておらなければ、心が使われておらなければ、生きたものに接する、是が私は親切だと思うね。私共は、そうたい「金次郎」先生とかもう当り前の事としてするでしょう。お花の好きな人は、はぁ虫が出来とりゃ虫を取ってやるでしょう。草が生えとりゃ雑草を取ってやるでしょう。はぁ是ちょっと葉が枯れとるごたると思うと、肥料も施すでしょう。ね、はぁこりゃ水が切れとると思や、散水を致します。
 何事にも真心になると云う事はそう云う事なんですよ。ね、ですから私共はです、それをいわばなしておるです。けれどもそれが人にたし人であった場合とか、事柄であった場合なのです。事柄そのものというのは、何時もじっとはしとりません。それは生きておる印です。事の事態と言う物は。何時も動いております私の対人関係。ね、いわゆる人間関係。生きた人を対象に致しております。事柄に対しましても人に対しましても、それは、ね、生きた花に対する様に云うなら、生きたものを飼っておる。
 それは牛でも馬でも良いでしょう。ね。ニワトリでも良いでしょう。猫でも犬でも良いでしょう。生きたものを飼っておる限りはです、ね、それを、に接すると云う事はです、ね、餌を与えるとか、ね、植物であるなら草を取るとか、肥料を施すとかと、言う事をして行くと云う事がです、ね、それがそのまま何事にも信心になれよというのはそれなんです。難しい事じゃないでしょう。はりゃ、もう家の猫はもう一週間も食べさせんちゅうごたるとが、大げさじゃないですよね。
 家の菊の花は植えたなりでもう、半年なら半年に一遍さく植えたぎり。そげなこちゃないでしょう。やっぱり水をやったり、ね、色々手掛けるでしょう。勿論それは私共の上に、犬猫があんまり好きでなかったり、花を作ったりする事があんまり好きじゃなかったものはです、もう大体作ろうとか飼おうとか思ってませんから、遠慮いたしません。けれども、好きでそこに花を作ると、飼い犬猫でも飼おうというなら、やはりそれに接して行く、その心が真心なのです。
 いわゆる生きたものに対するその心使いなんです。ね、ですから、私は本当に、猫を飼う人に、菊の花を作る人にです、大変な難しい事でしょうと。大変ですねと云う事はないと。むしろそれを楽しゅうやっておるというのが、信心だと。それが誰でもそれをなしておると。だから誰でも成せばなす、成されるこ事「信心する人は何事にも真心になれよ」と。信心する者としてはもう当り前の事を成して行く。信心させて頂く者は当然それを成して、それはね、花やら、例えば生き物が、を飼う人達が、ね。
 その生き物に対して食べ物を与えたり、又は、水を与えたり、肥料与えたり、する事が特別の事として成されない様に、「信心するものは何事にも真心になれ」よというのは、生きた自体。生きた人。ね、だからこそ、教祖様は又のみ教えに、ね、「人をかるう見な、軽るう見たらおかげはなし」と教えておられます。生きた人に対する。生きた事柄に対する。其処ん所にです、どう実意丁寧に神信心を持って、その事に当たって行くかと、当たって行くと云う事が信心なのであります。
 「信心する人は何事にも真心になれよ」と。もうあまりにも当然な事。所がその当然な事が、事実をいうたら成されてはいないと云う事。ね、そんなら何事でも真心になれよと云う事は、特別難しい事かというとです、もう当然当り前の事を当り前に成して行くと云う事。それは生きた植物、生きた動物を飼うたり、育てたりする様な物だと云う事。ね、その所を、疎かにしたら、その菊の花は枯れるでしょうし、その犬や猫やらは、いわゆる野良犬やら、野良猫になってしまうでしょう。
 信心するものは何事にも真心になれよ」というのは、いわゆる好きな人が犬猫を飼う様なもの、好きな人が菊の栽培をする様なもの。ね、お互い信心が段々好きになって参ります。ね、しかもその、例えば思いが、今まで思うた事もない、ね、深遠なものに触れて行く。その深さ、広さと言う物をです、身に付けて行くにしたがって、信心がいよいよ尊いものになって行く。
 どうぞ文男先生達夫婦が、只今から帰りますからどうぞ無事で福岡へ、到達のおかげを頂きます様にと。是は今まで、是は誰の場合であって、私は車のあそこまで送る時に、そういう、いうなら祈りを必ずした。いうならば、それはまぁ信心者としては当り前の事なのである。その当たり前の事が段々、いわゆる深い、広いものになって来る。どう云う風に広くなって来るかというと、ね、どうぞ今日一日のこの功徳が、遍く一切に及ぼして行く程しのおかげになります様にという、祈りが送られる。
 まぁ本当に大変な事だなぁ。何とまぁ素晴らしい事だなぁとこう思う。ね。是はまぁ取分け、取り次ぎ者としてはです、ね、皆さんが此処で、なら百円なら百円のお初穂をなさる。その功徳がですね、その人の願い事だけが成就致します様にではなくて、この功徳が、遍く一切にまで及ぼして行けれる、潤うて行けれる程しの祈りをかけさせて頂く、と云う事がです、ね、どう云う事になるでしょうか。
 花造りの例を取りました。ね、犬や猫やらを飼育する。それの例を取りました。ね、成る程菊作りの名人だと例えば言われる様なね、人の場合なんかは、そういう広さ、深さ、そういういうならば、研究心とでもいうか、熱心さとでもいうか、其処ん所が違うて来る。その熱心さがです、その深さ、広さがです、段々身に付いて行くと云う事が、何事にも真心なれよであり、何事にも真心になって行くと言う事は、段々その信心が広い深い、本当のものになって行くと言う事なんです。
 信心が成長して行くと云う事は、何事にも真心になれと。そのたった是だけですけれども、いわば去年の信心と今年の信心、いわゆる真心と此処に書いてある。とは、深さにおいて、変わって来る。広さにおいて違って来る。事になっていかなければ、いわば、菊づくりの楽しさも無いでありましょう様にです、信心させて頂く者の楽しみと言う物はない。
 あまりにも平凡。あまりにも当然な事。「信心するものは何事にも真心になれよ」と。ね、そこで、私共の生きた事態と云う物のです、ね、生きた人を対象とする場合です、ね、その事柄をいかに軽く見らずに、それを神様の御事柄として受けて行かなければならないかと云う事も、神の氏子としてのいわば頂き方。こりゃ対人の場合。そして其処にです、例えば不出来になって、不出来であると致しましょうか。その事柄がこんがらがった上にもこんがらがって行くと致しましょうか。
 どんなに真心で接しても、ね、その人は、こちらの真心なんか受け様ともしない。かえって反発して行く。かえって、もうこんな奴は、と思う様な事態に、まぁなったと致しましょうか。そこからいよいよ真心になれよという、その真心、真心の深さをいよいよ分らせて頂いて、その真心を、そこから追求して行かなければいけんのです。どうもこの頃この、菊の花がね、葉がどうも、こう元気がないです。
 それはもう、ねきや根で、悩んでおると云う事、云う事であればですね、それこそ根掘れ葉掘れ、其処ん所を研究して、はぁ此処にこう云う所に、虫がおったとか、なんか云っとった様なもの発見して行くでありましょう様にです。私共が事柄に対しても、人に対しましてもです、それが是程真心、真心になって此の事柄に当たっておるのに。此の位い真心を持って此の人に接しておるのに、反対な方になって来る。
 帰ってこんがらがって来るとするならばです、ね、いわゆる信心そのものをもう一遍検討してみなければいけません。それを四神様は、ね、「真を持って、真心を持って成就せん事ない」と仰った。「もし成就しない時には、氏子の真が、真心が欠けたと悟れ」と仰っております。もう此処に決まって来る訳なんです。いいですか。生きた事柄、生きた人に接する、何事にも真心になれよ、というそれなんです。
 そして例えば昨日私がです、皆さんが帰られる時に、自動車を表まで送って、ね、必ず私は拍手して合掌して皆さんの車を後ろから御祈念をする。どうぞ無事に帰られる様にという、今までは祈りであった。所が昨夜はです昨夜からはです、私が、の是からの祈りがです、そういうただ祈りだけではなくてどうぞその功徳が、遍く一切に及ぼして行く程しの、潤いを持った働きになる事を祈って車を送る事になるでしょう。
 限りがないですね。限りがないからこそ楽しいのです。限りがないからこそ、限りないおかげが受けられるのです。それに精進して行きゃ、是はまぁだ真が欠けた、真心が欠けておると悟れと仰る、四神様のお言葉。成る程にも真心になれよ、たいてい真心になっておるごたるけれども、そこに成就しないとするならばです、その自分がたいてい真心になっておるというその信心を、もう一つ検討して見なければいけんのじゃないでしょうか。それがね、それがもう当り前の事として、成されて行く。
 それは菊作りの人がね、菊作りに精進して行く姿そのままであります。犬猫の好きな人がその犬猫をね、食べ物を与えたりね、又はそれを色々と飼育の方法を研究して育てて行く様にです一時だってこれは相手が生きたものですから、ほっておく訳には参りません様に信心も成程、何事にも信心になれよと云う事が分ります。しかもねそういう祈りに明けて暮れると云う程しのです、事でなければならんと云う事にもなります。
 祈りに明け暮れさせて頂いておる時の信心者の幸せをです、そこにしみじみ感じられる程しのおかげを頂きたい。「信心するものは何事にも真心になれよ」。あまりにも簡単あまりにも平凡当然の事。信心者としては当然の事、ね。それは菊作りの人が毎晩お水を与えたり、ね、いわば虫をとってやったりするのと同じ事なのである。その当り前の事です、私共が当り前として出来ない。真心になれない真心になれないというのは、どう云う事であろうか。それは結局信心がねあまりに好きで無いからなのである。ね、
 おかげは好きだけれども、信心の方はあまり好きじゃないからである。だからこのおかげを頂いたならもう止めよう。このおかげ頂いたならもう止めよと思うとる。ね、それじゃ犬猫も育たん、菊も育ちません。昨日、此処の村内の方が、あそこの団地からお参りをして来る方があります。お腹に、娘さんが胆石が出来てちゅうんです。レントゲンにに掛かったらそういう、が幾つもお腹の中にある訳ですね。
 それで田中さんのお導きでお参りして見えられて、今日取り出したか、この方もそうだったですけどね、おかげであの手術をせんなりにそのおかげを頂いた話やら、ね、又は手術をするにしても、神様にお願いをしてすぐ手術というのは、こういう例が、例えあぁ体験頂いた方達がありますよというて、まぁ体験のお話させて頂いて。そしてその事を通して、どうぞ一つ此処の合楽の団地で、あなたの娘さんがまずいっちょおかげを頂かれて、せっかく家が沢山あぁして増えてい来ておるのですから。
 信心ちゃこんなに有り難いもの、こんなに有り難い、幸せな事になって行けるちゅうんだという一つ手本を示されんでも、どうでも助かる様に私がお願いを致しますから。どうぞおかげ頂いて下さいというてね、それからお参り、ずっとなっておられます。で二、三日前は、おかげで無事に手術がすんだけれども、医者がたまがった訳ですね。もうお医者、お医者さんが気の毒がられるする。もうせっレントゲンにかかった時には、確かにもう此処に石があるでしょうがち。
 所が開いてしまった所が全然石が無かったち。もう是はおかげじゃろち思いますち。て言うて言われ。だからこのおかげだけに止まらずに、あの是から一つ本気で私がお話をする事を聞いて頂いて、どうぞもうおかげ私はもうどっか、善導寺の向こうの方からあのお母さん。だから娘にどうでんこうでんいっちょこの有り難い神様をそばに頂いておるから、お参りするごと申しますちゅうて帰られましたんですけれどね。
 そう言う所からいうならばおかげ頂いて、おかげを頂いたらもうそれでお礼参りが済んだら、済んだと言った様な信心ではない。お道の信心は所がそれで終わって行く人はどのくらいあるか分からないのです。そこからです「信心する者は何事にも真心になれよ」と、真心にならさせて頂く事が楽しゅうなる事。ね、菊作りが菊作りを楽しむ様にです、ね、いうなら自分の心作りに楽しみになる様に、一つ信心がならせて頂いたらそれこそもうそれは犬猫の好きな人が犬猫をまかなうのが楽しい様にです、ね。
 所がそれは当たり前の事を当たり前に教えておられる。当然の事なんだけれども、その当然な事がです、何事にも真心になってい無いと言うのは、何処に原因があるか。それは信心が好きじゃないからだと。信心が好きと言うところまで行って居ないからなんだ。ただおかげの方だけが好きなのだ。ね。だから信心が好きにならなければです、心をね、限りなく美しゅうして行く事も、または限りなく豊かにして行く精進もです、ね、対した事じゃないのです。
 息子を育てて行く自分が楽しい。豊かになって行く自分が有り難い。ね、そこに信心が好きになって来る。そして当然の事を当然の事として、なさせて行けれる、いわゆる信心生活。祈りに明け暮れる生活がどんなに尊いものか、と云う事が分って来る。しかもその祈りが段々深いものに、広いものに段々なって行くと言う事がです、もういよいよ有り難い、尊い事になって来るという、そういう信心を身に付けて行きたいですね。
   どうぞ。